歴史の中の一コマ

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三内丸山遺跡

  • Ⅰ.歴史の遺産

Photo=縄文時代の土偶(青森県つがる市亀ケ岡遺跡出土:遮光器土偶)

 

  • Ⅱ.古代の遺産

Photo=縄文時代の深鉢形土器(火焔型土器)と翡翠(ヒスイ)の勾玉

 

  • Ⅲ.縄文時代

 

Photo=三内丸山(さんないまるやま)遺跡:今から約5500年前~4000年前の縄文時代の集落跡(復元)

【縄文時代】

日本の歴史の中で最も「歴史のロマン」を感じさせる時代は、縄文時代ではないだろうか。

縄文時代の始まりは、日本列島が大陸から別れる頃に始まる。日本にもナウマンゾウなどの大型哺乳類が生息していたとのこと。そして、ある時期からは、狩猟だけでなく農耕文化もあったという。縄文時代については、縄文土器と竪穴式住居程度の知識しかなかったが、文化的には長期間とても平和な時代だったとされる。また、縄文後期には、ストーンサークルやウッドサークルがあったという。どのような人たちがどのような生活をしていたのか、様々な造作物を残しているが宗教的なものなのかコミュニティの生活に必須だったものなのか・・・?歴史の謎が知的な想像力を膨らませて楽しませてくれる。

 

①翡翠の勾玉(ヒスイのマガタマ)不思議:ヒスイは強度が強く加工が難しい上、日本では新潟の糸魚川周辺でしか採れない。それが、三内丸山遺跡や北海道南部の遺跡で発見されている。縄文人は広いエリアでの交易を行っていたことが窺える。600キロ以上離れた間を陸路で交易したのか、海路だったのか。海路ならば、どんな船だったのか、どのような旅姿だったのだろうか?

②土偶の不思議:縄文時代の土偶は、弥生時代に埋葬用に作られた「埴輪」とは異なり、作られた目的については諸説あるが明らかではない。その形は、概ね女性の特徴を表しているが、宇宙人かと思われるようなカエルのような目をしていたり、鎧を着たような服装であったりと不思議である。

➂縄文土器の不思議:縄文時代という名称の元となった縄文土器、形も不思議。火焔(かえん)模様から飲み物を注ぐような口のついて土瓶タイプまで、沖縄から北海道まで多くの遺跡で発見されている。食料の保存や煮炊きが目的ならば、わざわざ複雑な模様にする必要はなかったのでは?日本の北から南まで、類似の土器が使われていたというのも不思議。


時代区分 出来事
(草創期)
約1万3千年前~約1万年前
(気候・環境)この期の初め頃は日本列島が大陸から離れる直前であったと推測されている。晩氷期の気候は、短期間に寒・暖がおこり、厳しい環境変化であった。温暖化が進行し、氷河が溶けて海水面が上昇し、海が陸地に進入してきた。「海進」という
(生活・住居) 環境の変化に伴い貝類や魚類が新しい食糧資源になった。狩猟の獲物は、ゾウや野牛の大型哺乳動物からシカやイノシシの中・小哺乳動物に変わっていった。竪穴住居址からサケの顎骨発見。小型の骨製U字型釣針。
(石器)局部磨製石斧が作られる。槍・弓矢の製作・使用。
(土豆粒文土器・隆起線文系土器・爪形文系土器・押縄文系土器(多縄文系土器)女性像を線刻した小礫が作られる。
(早期)
約1万年前~
6千年前
(気候・環境) 日本列島が完全に大陸から離れて島国となっていた。そして、初めの頃は、現在よりも気温2度ほど低く、海水面も30メートルほど低かった。その後、海水面の高さが戻る。鬼界カルデラの噴火で西日本一帯火山灰が積もる。
(生活・住居) 数個の竪穴住居で一集落を構成する。組み合わせ式釣り針。ドングリやクルミなどの堅果類を植林栽培する初歩的農法が確立し、食糧資源となっていた。狩猟では、大型の哺乳動物に変わって、シカやイノシシなどの中・小型哺乳動物が中心となった。狩猟道具として弓矢が急速に普及した。
(石器) 網用の土錘・石錘。ヤス、銛。堅果植物を叩いたり、砕いたり、すり潰したりするための石皿や磨製の石なども使用されていた。
(土器 圧煮炊き用の土器の出現が旧石器時代の生活を変えた。縄文・撚糸文の尖底土器が作られた。夏島貝塚から撚糸文系土器、貝殻沈線文系土器、貝殻条痕文系土器という早期から終末までの土器が層位的に出土した。小型の土偶が作られる。
(貝塚)貝塚は、この時期の前半には、海が進入して出来た海岸地域に作られていた。貝塚はヤマトシジミが主体であった。狩猟とともに漁労が活発化した。最古級の神奈川県横須賀市夏島貝塚、千葉県香取郡神崎町西之城貝塚。押型文土器期に属する愛知県知多郡南知多町先苅(まずかり)貝塚は海面下13メートルの深さから発見された。人口2万100人。縄文犬を人と一緒に埋葬。屈葬。
(前期)
約6千年~
5千年前
(環境) 気候温暖で海面・気温上昇(縄文海進、海水面4〜5メートル高くなる)のため、現在の内陸部に貝塚が作られる。常緑照葉樹と落葉照葉樹。
(住居) 竪穴住居が広場を囲んで集落を作る。湖沼の発達により丸木船が作られる。漁労活動開始。
(石器) 木器・土器・櫛・黒曜石などに漆を塗ることが始まる。環状列石が作られる。
(土器) この期を境に土器の数量は一気に増加し、形や機能も多様化し、平底土器が一般化する。土器は羽状縄文を施した繊維土器が盛んに作られる(→関山式、黒浜式)。
(遺跡) 耳飾り・勾玉・管玉などの装身具が作られる。立石列(りつせきれつ)環状石籬。貝塚。人口10万5500人。
(中期)
約5千年~
4千年前
(生活・住居) 集落の規模が大きくなる。植林農法の種類もドングリより食べやすいクリに変わり大規模化する。
(石器) 海岸線ほぼ現在に近くなる。大型貝塚形成。
(土器) 石棒・土偶などの呪物が盛んに作られる。石柱祭壇。抜歯の風習が始まる。気温低下始める。立体的文様のある大型土器が流行する。
(遺跡) 貝塚。人口26万1300人。
(後期)
約4千年~
3千年前
(生活・住居) 大型貝塚。内陸地域にも貝塚が出来ていた。製塩専業集団、塩媒介集団、塩消費集団。伸展葬。交易目的の漁労民発生。
(石器) 大湯環状列石(ストーンサークル)、東北地方に集中。
(土器) 村の一角に土器塚が出来る。製塩土器。
(遺跡) ウッドサークル(巨大木柱遺跡)。敷石住居址。人口16万300人。
(晩期)
約3千年~
2300年前
(環境) 気温2度前後低下。海面も低下。漁労活動に壊滅的な打撃。
(生活・ 住居) 木製の太刀。頭部外科手術か?漁労の網。東北の太平洋側に銛漁開花。
(石器) 北九州・近畿でも縄文水田。
(土器) 山の寺式土器・柏崎式土器(夜臼式土器)。
(遺跡) 貝塚。人口7万5800人。
  (紀元前10世紀~:弥生時代)
*Wikipediaより引用

 

Photo=縄文時代の不思議な形の土偶(群馬県吾妻郡東吾妻町郷原出土:ハート形土偶)

Photo=三角顔の土偶(長野県茅野市中ッ原遺跡から出土した4千年前の土偶「仮面の女神」)

  • Ⅳ.土偶についての新説?

(土偶についての通説)

縄文時代の土偶は、古いものは1万3千年程前のもの(三重県松阪市粥見井尻遺跡:かゆみいじりいせき)から始まり日本全国の出土総数は15000体程あるという。出土していないものを考えると、莫大な数になる。出土している土偶は大半が何らかの形で破損しており、故意に壊したと思われるものも多い。そのため、土偶は祭祀などの際に破壊し、災厄などをはらうことを目的に作られたという説、また、大半の土偶が人体を大きくデフォルメして表し、特に女性の生殖機能を強調していることから、多産、安産などを祈る意味合いがあったものと推定する説、神像、女神像、精霊、護符、呪物、魔除けなどの説があり、子供の玩具やお守りだった、身体の悪い所を破壊することで快癒を祈った、ばらばらになるまで粉砕された土偶は、それを大地にばら蒔くことで豊穣を願ったのではないかなどとする説もある。また、集落のゴミ捨て場などに投棄された状態で出土されることが非常に多いことから、最初から意図的に破壊して投棄することが目的だったと言う説を支持する者もいる。(Wikipediaより抜粋)

(新説)

土偶が祭祀や豊穣を願うため、あるいは安産祈願だなどという説は、単純で発想が面白くない。また、考古学者は、縄文人が祭祀を重んじるような未開な文明人だという前提で考えているようだ。しかし、翡翠を加工する技術があったということは縄文文化はもっと高尚だったに違いない(と勝手に推測)。

そこで次のようなプロセスで思考を巡らせ、新説を考えてみた。

①縄文時代は、広範囲(日本全国)での交流があった。

②破壊された土偶と破壊されていない土偶がある。

➂新潟以外の遠方の遺跡からも翡翠(ヒスイ)の勾玉が発見されている。

④土偶の形状は、極めて斬新なものが多い。

⑤遺跡のゴミ捨て場に捨てられているケースが多い(制作にはかなりの手間がかかっているはずなのに「ゴミ捨て場に捨てられているケースがある」ではなく「捨てられているケースが多い」というのがポイント。)

上記5つの前提条件から推測すると、次のような仮説が成り立つ。

縄文時代の土偶は奇抜なデザインが多い。カエル目の土偶は、目玉に横線が入っているので人間の目玉を大きくしたものではなく、明らかにカエルの目を模倣したもののようだ。三角形の顔の土偶は、カマキリの頭に似ている。一方、ハート形というのは不思議だ。自然界の動物には余り見かけない形だ。植物の葉っぱには多いが。現代人にとってのハート形は、愛情表現の象徴的な形になっているが、ハート形はそもそも中世ヨーロッパが起源と聞いている。では、縄文時代のハート形は何を象徴していたのだろうか、不思議である。こんなことを考えながら縄文人のヒューマニティに想いを馳せながら土偶の制作目的を思案した結論が次のようなものだ。

『全国土偶デザインコンテスト』である。毎年?全国土偶デザインコンテストが開催され、優勝者には縄文人のオシャレ道具である翡翠の勾玉(ペンダントトップ)が贈呈された。そのため、ハート形やカエルの目をしたもの、三角顔のものなど奇抜なデザインの土偶が制作されたのではないか?コンテストで負けた者は地元に土偶を持ち帰り、その制作者が悔し紛れに破壊し、ゴミ捨て場に捨てた。優勝した土偶は、大切に保管され後世にそのままの形で残った。

さて、『全国土偶デザインコンテスト説』は、・・・・・残念!

考古学会では受け入れられそうにありませんね。

では、皆さんも新説を考えてみてください。

 

以上、縄文時代に想いを巡らせてみました。